祖母のこと、これからのこと

今の気持ちを残しておかなければならないという気がしたので、書いておこうと思う。

5月末、祖母に病気が見つかり、それが瞬く間に進行して、残された時間もあと僅かになってしまった。他の誰よりも私を案じ、可愛がってくれた祖母だ。この2ヶ月半の間、忙しい仕事の合間を縫うように涙していた。病気が見つかってすぐは、仕事が休みの日に家まで通い、痛がる祖母を恐る恐るマッサージすることも出来ていたが、まもなく近くの病院の緩和ケア病棟へ入院が決まった。私は遠方の大学病院で診てもらった方がいいのではないかと自分勝手な主張を最後まで続けてしまったが、本人にその体力が残されていなかった。

緩和ケア病棟では面会が制限されていたので、祖母にLINEを覚えてもらってよく通話した。病室の窓から見える公園に立って、祖母に窓際まで来てもらい、互いに姿を見ながらビデオ通話したこともあった。緩和ケア病棟であるのに面会出来ないのを不満に思っているうちに、病院側が会議を経て面会を許可した。それが何を意味するかは明らかだった。久しぶりに対面する祖母は、か細くなってしまった手で、それでも強く私の手を握りしめてくれた。私はそれまで、世の中にこんなに悲しいことがあるとは知らなかった。

会えば何も言えなくなってしまうので、手紙を書いて数日後に渡した。痛みがあまりに強いため、薬の量が増えた。病気の進行も手伝い、うとうととしている時間が多くなった。電話しか出来ないなんてともどかしく思っていたのも束の間、会話も難しくなってしまった。後悔する暇すら与えられていないように感じる。手をさすることができるのも、多分今だけなのだと思う。

いつ何があってもいいように、今は病院により近い祖母の家で寝泊まりしている。居間に布団を敷いて寝ると、小学生の頃、母と私と妹とで数えきれないほど泊まり、布団に入って一緒にテレビを見たときの感覚がまざまざと蘇ってきた。朝になって目覚めると母も妹も祖父母も既に起きていて、祖母が朝食を準備してくれているのだった。祖母が元気な頃に戻りたいと思う。本当にそうなってほしいと思う。泣くばかりじゃなくて、時間が許される限り、自分の言葉でありがとうと伝えたい。

祖母は何度も、私のことが一番気がかりだと言った。不甲斐ない孫で本当に申し訳ない。祖母に心配をかけないようにと強く思って、生きていかなくてはならないと思う。

 

人間性の快復をめざして

修論の諸々が終了し、押し付けられた引き継ぎの雑務をこなすだけの日々になった。教員はメールでも不快感を隠そうともしないような人間だが、雑務を押し付けるときだけはいやに丁寧なメールを寄越した。あまりに酷い2年間だった。研究室選びに迷う学部生に向けて、こんな研究室は選んではいけないと講義できるだけの経験はあると思う。

最近は何をする気にもなれない。布団にいそいそと潜り込んでひたすら寝ている。そうしていると1日が終わる。この徹底した姿勢は、社会に抵抗しているかのように見えるだろう。いつの間にか心を動かされるということがほとんどなくなった。ありとあらゆる他人にぞんざいに扱われているように思う。本を読まなくなったし、大型書店に行っても本当に何とも思わなくなった。これまでどの棚をどのように見て、一日中でもここにいられると感じていたのか全く思い出せなかった。勉強したいことも今はひとつもない。昔の自分からしたらありえないことなのかもしれないが、悪い方へ転がってゆくのはこうも簡単なことなのだった。というか、ブログもどんな風に書けばいいんだっけ。引っ越したら全て元通りになることを期待したいが、さて元通りになったところで私は生活出来るのだろうか。当たり前に整理整頓して朝は起きて夜は寝て、自分自身を取り戻したいと思っている。終わり

 

(^-^)

この生活は持続不可能だと感じる。掃除とか片付けとかが全然出来ない!コンビニに通ってお金をたくさん使ってしまう。私だけ時間の感覚が完全に狂ってて、大学にあまり行っていないことや返信が遅いことで先生たちがよく怒っているのだが、時間の流れが違うのだからどうしようもないのだ。先生たちがイライラしながら待っている1日は私には2時間くらいのもので、寝ているとすぐに過ぎてしまう・・・。どうしようもないこととして諦めてほしい。実際どうしようもないのだから。それよりも文体を持った人間になりたい。中上健次の短編を読んでそう思った。

なんとなく年末からナンバーガールを結構聴いている。ナンバーガール相対性理論の歌詞がかなり似ていることに気がついて、一人で驚いていた。ナンバーガール相対性理論も、一部の人間がある時期にだけ通り抜ける、自分と隔絶された薄汚い世界が一瞬だけ見せるきらめきを歌っているのだ・・・。終わり

修論執筆に伴う教員との関係悪化についての報告

毎日ブチ切れられながら修論書いてる。つらい。嫌われていると知っていて学校に行くのがしんどい。去年辞めておくべきだった。指導教員が「引き止めたいけど私の仕事は実験したい人を応援することだから無理には止めない」というようなことを言い、大ボスが引き止めた。指導教員はあのとき暗に辞めろと言っていたのだ。1年かけて更に関係が拗れたように思う。修論を書いたら今度は発表のスライド作成に向けて更に(!)関係が悪化することが目に見えている。我々の学年が終わっているのは分かるが、それはそれとして本当につらい。終わり

betcover!!の魔術および、んoonの魔法

11月1日火曜日、データ無し且つ単位無しであり卒業が危ぶまれているにも関わらず、私は呑気なものでbetcover!!×んoonのツーマンライブが行われる東京渋谷WWWXに1人立っておりました。

卒業が危ぶまれていることは重々承知で、教務課に赴いて「あの、えっと、単位って足りてますか?7月31日締切のレポートを8月に提出したのですが。」などと意味不明な不定愁訴を行うこと数回、明らかにライブに行っている場合ではないのだが、気づいたらチケットを取っていたので仕方なかった。まずライブハウスに行ったことがなかったので、買わされたドリンクチケットの消費タイミングが分からずジントニックを手渡された瞬間に飲み干してしまい、そのうえ普段の私の生活といえば家で虫のようにうずくまっているか研究室の顕微鏡を猫背で眺めているかの二択であるのに、大都会の三密空間に突然放り込まれたことでかなり人酔いを起こしており、倒れるのではないかと思った。ライブはそのような状態で始まった。

強い照明にbetcover!!は良く映えていた。ヘッドフォンから流れてくる曲を音楽だと思い込んでいたのだが、このような音の洪水が音楽なんだと初めて知ったように思った。圧倒されながら見ていて美空ひばりみたいだと思って、変な感想なのだが、それくらい貫禄があってかっこよかった。

んoonの演奏中はずっと、明るくて不思議な夢の中にいるみたいだった。綺麗な高音とハープの透明な音色が響きあい、ぼーっとした多幸感に包まれていた。全体的に静かに興奮しすぎてセトリはあまり記憶にないのだが、Greenを演奏してくれて超嬉しかったことは覚えてる。あとLobbyの照明がピンクでジャケットに合っていて素敵だと思っていた。んoonの曲は普段聴いていても浮遊感が得られて素敵なのだが、生で聴くとその魔力は凄まじく勝手に身体がゆらゆらして、それは全員同じだったらしく、視界に映るものすべてが揺らめいていた。

 

今は結構余裕がない時期なので、閉塞的で魔術的なbetcover!!は家で1人で聴くのが合ってるのかもなあと思った。世界観に没入していくだけの気力を回復させて、もう一度観に行きたいです。新しいアルバムがとても楽しみ。

んoonは心の重さを覆い隠して幸福な夢を見させてくれる本当に魔法のような演奏だった。何も排斥しない透明な明るさ。あー、すごく良かった...。FreewayのLPを購入したので、そちらをたくさん拝聴し、修論を書き、そして、そして......。終わり

幹細胞培養上清の謎

頬の辺りに直径1mmにも満たないニキビ跡が出来て小さな穴のようになり、それが気になり出すとどうにも気分が落ち込み、この穴が塞がらないなら死のうという気になってしまうので色々と治療法を調べたのだが、どうやら通常の皮膚科ではニキビ跡の治療は行っておらず、自由診療に縋るしかないことが判明した。そこで私は美容皮膚科の門を叩き、大きなモニターに若く美しくあることを脅迫されながら、跡になっている箇所に1ccだけ、奇妙な注射を打たれた。液体の正体は幹細胞の培養上清だという。私は細胞培養のプロフェッショナルであるから様々な疑問点が一挙に浮かんだのであるが、一般人に対する説明で一応、納得の姿勢をみせた。

なぜかその注射を打つと献血や臓器提供が出来なくなるとのことだった。幹細胞を移植するならともかく、たかだか培養上清であるのにこれはどういう理屈なのか。私は昔から臓器提供しようと考えていたためこれは結構ショックな出来事ではあったのだが、しかし崇高な志を持って臓器提供するにしても医療者には私の死体や臓器などを思いがけずぞんざいに扱われるだろうと思うので、まあええかと思った。ところが結局献血と臓器提供の権利を売ったのにも関わらず、今のところ治る気配はないので、やはり死のうと思った。終わり

生活の全てが苦しくて何かの罰を受けているみたい。昔からずっと死にたいと思っていたが、今は自殺しか手段がないような気がしていて、それを少し怖いと思うようになった。そうせざるを得ないという感覚がひたひたと迫っている。何とかなる日なんか絶対に来ない。たとえ環境が変わっても自分がすぐにゴミみたいな場所に変えてしまって、この罰は自分で望んだ通りに一生続くのだと思う。終わり