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読書感想文

睡眠時間が足りてない・・・・・・・

寝ずにレポートを3つ書いた。ただ提出するだけでは浮かばれないのでここにも投げておこうかなと思う。読書感想文を書いたのは久しぶりだ。情緒的表現を交えることが出来るというのがなんだか新鮮だった。

読んだ本は、「ペコ _ロスの母に会いに行く」。認知症を患った母みつこさんと息子の話。

(_は検索除け。「君のレポートここのWikipediaと同じこと書いてるよね?」「そこのページは僕が編集したものです。」というネット小噺みたいなことになりかねない)

 

じゃ、始まるよ〜

 

 

 認知症、と聞くと私は叔母を思い出す。叔母は認知症だったわけではないが、脳卒中で倒れた後は、何に対してもあまり反応を示さないようになっていたため、認知症に近い状態であったと思う。小学生だった私にとって変わってしまった叔母の姿は衝撃的だった。これまで笑顔で迎えてくれていた叔母が、病室で横たわり、突然私を認識しなくなったことに対して強く混乱したことを覚えている。このような経緯で私にとって認知症とは、人柄を大きく変えてしまい、その人の記憶から自分がいなくなってしまうものであるというイメージに付随するものであった。

 「ペコ_ロスの母に会いに行く」は、認知症を患った母と息子の毎日を描いた作品である。正直、序盤ではつい数分前のことも忘れ、会話も成立しないみつえさんに嫌悪感を抱いてしまったのも事実だ。これは先ほど述べたように、私が認知症のことを恐れているからに他ならない。祖父母が、両親が、ひいては自分が、いつかこのように何も分からなくなってしまったらどうしようという不安な感情を持たずにはいられなかった。

 しかし、読み進めていく上で、みつえさんが「何も分かっていない」というのは間違っているのではないかと考えるようになった。確かにみつえさんは作中で、電話をしていたことをすぐに忘れ受話器をその辺に放置して息子に再三注意されたり、徘徊をしたり、側から見れば大人としての常識を失いつつあるかのように見える。私もそのような行動を取る認知症患者に直面したら、呆れたり、距離を置きたくなったりすると思う。だが、この本を読むと、みつえさんにはみつえさんの世界があり、みつえさんの行動はその中のルールにちゃんと則っているのだということが分かる。認知症患者に対しては、その点を理解し、尊重しなければならないのだと思う。一般的に言われることであるかもしれないが、自分の尺度で認知症患者を判断しおかしいと決めつけてはならない。そういった意味で、息子はみつえさんに対して声を荒げたり、忘れやすくなった彼女を頭ごなしに否定したりするのではなく、どこまでも優しく寄り添っていたように感じた。

 

 また「命がすれ違う」というページを読んだとき、私は認知症の新たな側面を知ったように思った。息子に車椅子を押され散歩をしているみつえさんが、ベビーカーに乗った赤ちゃんとすれ違う、何気ないシーンを切り取ったものだった。そこにはこう書かれていた。「散歩の途中… 命がふたつ並びすれ違う 人生の重荷を降ろした笑顔と人生の重荷をまだ知らない笑顔の 何とよく似たものか もうじき春である」。 赤ちゃんとみつえさんの屈託のない笑顔を見て、とても温かな気持ちになると同時に、認知症とは、人生の重荷を降ろした状態であるだけに過ぎず、私が思っていたような恐ろしい病ではないのかもしれないと感じた。

 この「重荷を下ろす」ということに関して印象的だったのが、時に暴力という形で、きつく当たられていたにも関わらず、何度も何度も嬉しそうに夫の幻想を見るみつえさんの姿だ。過去のつらい思い出が浄化され現在とゆるやかに混ざり合い、見えないはずの夫に心からの笑顔で「父ちゃん、おいしか酒ば用意して待っとりますけん。」と呼びかけるその様は、長年連れ添った夫婦の絆そのものだった。夫が感情的にちゃぶ台をひっくり返したり、みつえさんが顔に痣を作って息子たちを連れて実家に帰ったり、みつえさんが不憫に思われるシーンも多々あった。その上で、色々なことを忘れてしまってもなお最後に残るのは愛情なのだと思うと、みつえさんの優しさ、懐の深さに胸を打たれた。

 過去・現在の怒りや悲しみから解放されて、大切な人に対する根源的な愛情だけを抱えて和やかに笑っていられる毎日というのはとても美しいように思うし、人生の最後の締めくくりとしてこれ以上ないようにも思える。実際に自分の家族が認知症になったとき同じように思えるかは分からない。かつて叔母に対して感じた不安を完全に拭うことは難しいだろうし、やはり大切な人が私にまつわる記憶を無くしていくというのは耐え難いことである。それでも、その人はすっかり別人に変わってしまい「何も分からなくなった」わけではなく、これまで長いこと背負いこんできた重荷をただ下ろしただけなのだと捉えたい。悲嘆にくれるばかりでなく、その人の世界を受け入れて、みつえさんと息子のようににこやかに散歩に出かけられたらいいと思う。

 

 

終わりました。なんだかブログのようですね。皆さんの大切な人が認知症になったらどうでしょうか。ア〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!眠すぎる、終わり。

若さ

 友達が、彼氏と最近うまくいっていない、今度好きな社会人とドライブに行く、というようなことを言っていた。こんな話が身近なものになるとは、いつのまにか自分は少女ではなくなったのだと思った。他の友達はうんうんと頷き、めっちゃ運転下手だったりして、と言って笑っていた。

 

帰り道自転車を漕ぐ。40代〜50代くらいの女性が全く前を見ず歩いてきてあげく睨んでくることが2度あった。何でおばさんって周囲を注意しないんだろうと思う。ああ、おばさんという言葉の響き・・・。

 

歳をとることは怖い。そういうのはエイジズムだから気にせず生きるべきだ、とか助け舟のような意見はたくさんあるが、それらは結局どうでもいいことだ。しわしわの老人たちは私と別の生き物ではなく、私の延長なのだという動かしようのない事実。どこかでそれを恐れているからこそ、人は長い一生のほんの一瞬である若い学生時代を異様に尊く語るのだろうし、みんな必死に自分の写真をインスタに残すのだと思う。

 

最近は完全に昼夜逆転していて、昨日は4時頃寝て6時間くらい昼寝した。私は今19歳で、来月には20歳になる。若さに取り縋るわりに本当に何もしていないから笑ってしまう。どうしたらいいか分からない。あと5回くらい19歳が繰り返されれば、ちょっとは19歳の模範解答に近づけるだろうか、終わり

アフリカ

レポート執筆に飽きて、卒業したらアフリカに行こうかな、と言ってみた。
冗談だと思った友だちがアフリカ?なんで?と笑った。青年海外協力隊みたいなやつ、良いなって思って。えーなんで、私は日本から出たいと全然思わないな、汚いのが嫌だからムリだと思う。まあ、日本ってキレイだもんね。うん、中学校の友達で国境なき医師団入りたいって子いたけど私は全然やりたいって思わなかったもん。そうなんだ、日本でバリバリ稼ぐのも良いよね。 と、私たちは時折このように微妙な齟齬をきたしており、いつか修復不可能なほどヒビ割れてしまわないか心配だ。綺麗な日本と汚いアフリカという対比を胸に秘め何の躊躇いもなく綺麗な方を選び続ける彼女に対して私が思っていることは何だろう。幼稚であるような気もするその一方で、ひとつの嘘もない清廉な人であるとも思う。嘘がないことは大切なことだ。将来私は本当にアフリカに行くだろうか。結局は私も、彼女と同じ哀れみの目でアフリカの子たちを見ることだろう、終わり

大江健三郎『芽むしり仔撃ち』

 

読みました...........。日本語圏に生まれてよかった...............。

 

大江健三郎は2年ほど前に『飼育』と『奇妙な仕事』を読んだのが最初だ。『飼育』を初めて読んだ時の衝撃は凄かった。その頃は完全に精神が廃れていたので無感動に本を消費していたけれどこの作家は1ページ目から圧倒的だった。登場人物たちはみんなどこか外れていて、それなのに全ては湿度や匂い、質感をはっきりと持っていた。この話の中の黒人とは一体なんなのか、打ち砕かれた手が表すものはなにか、自分なりに考えた覚えがある。

そういった経緯で完全に大江健三郎isすごいと思った私は図書室のご自由にどうぞ持っていってねコーナーから『水死』、『個人的な体験』を即かっさらった。が、『水死』がまるで分からずそれっきりとなってしまっていた。

 

さて、長めのブランク期間となってしまったが、本日ようやっと『芽むしり仔撃ち』を読み終わった。まず目次が良すぎる。ドライかつ詩的、ぴったり十章。到着で始まり、追放で終わるなんて、世界一では。。

本文の方もまるで魔法みたいな文章の連続だった。読み進めるうちに僕たちの世界の黴菌がじめじめとこちら側にも侵食するようだった。勘が鋭くない方の読者なので、正直「芽もむしってないし仔(羊とかかな)も撃ってないし一体なんだ?」と思っていた節もあったが、最終章でようやく「そういうことか!」と膝を打った。今日の帰り道はスゲ〜と思い色々考えながら自転車を漕いでいたため楽しかった。

調べると英題は ”Nip the Buds, Shoot the Kids” らしく、勘の鈍い読者にも多少優しい仕様らしい。本当はまだまだ思うところがあるが、知の巨人〜文学編〜の感想を書くのは私にはまだ早すぎると思うし、明日は1限もある。行きの自転車でまた考えたい、終わり。

 

 

 僕は閉じこめられていたどんづまりから、外へ追放されようとしていた。しかし外側でも僕はあいかわらず閉じこめられているだろう。脱出してしまうことは決してできない。内側でも外側でも僕をひねりつぶし締めつけるための硬い指、荒々しい腕は根気づよく待ちうけているのだ。(『芽むしり仔撃ち』第十章より )

 

 

眠れない夜 起きられない朝

眠れないので例のケンカの人にDMで謝ろうかと考えた。

でも結局、DMの画面で「お久しぶりです。」とまで打ったところでやめた。こういうことを正しさだと信じていたいものだが、結局のところ自己満足でしかなく、また自分の愚かさなんだと思い直した。

先日、映画レディ・バードを観てきた。高校生の青春ストーリーなんて観て精神に異常をきたさないか心配だったが、杞憂に終わった。むしろことごとく世界にフラれる主人公クリスティンを可哀想に思う場面が多かった。
私は基本的に映画は退屈してしまうのだがそれがなかったので面白い映画だったんだと思う。


最近朝起きるのがつらい。こんな時間まで起きるのが常態化しているのだから当然だ。雨が降るなか自転車を漕がなければならないのも意味が分からないし最近は小松菜を食べると反射で吐きそうになる。
大学生は全員気持ち悪いし特に嫌いな先輩は会う度いちいち容姿について指摘してくる。何もかもいい加減にしてほしいと思う。

誰もがいつの日かレディバードの名を捨てなければならないが、そう簡単に全てを割り切れるものだろうか。まずはしっかりと生活を送るところからだ。これを思うのはもう何度目だろう、終わり

日曜日の過ごし方

寝すぎた。

 

起きている時間も横になっていた。甘ったれるな若者!

思い返すと日曜日はこのパターンに陥ることが多い。毎週日曜日、退屈な部屋の中で私は生きているのか死んでいるのかわからない。

怠惰な日曜日の反省を込めて、どうすれば良い生活が出来るのか考えてみようと思う。

 

まずは無料編。

本棚の読んでいない本を読む、勉強する、窓を開けて涼む、スケッチの練習をする、洗濯をする、筋トレと柔軟を交互に繰り返す 、川に行く、大学図書館に行く、ブックオフに行く

 

無料編はなかなか難しい。交互に繰り返すってなんだよ。

日々の楽しみのためにもお金は必要ということだ。そういうわけで有料編。

映画を観に行く、喫茶店に行ってみる、ミスドでドーナツを食べる、地下鉄で終点まで行く、早朝に起床したのちスケッチブックを持って海に行く(遠い)、一番のパン屋さんを探す、カフェの二階で読書する、好きなお菓子を大量購入して借りた映画を観ながら食べる、お菓子を大量に作り食べる、金曜日から小旅行に出かけるのもいいかもしれない(宿の取り方がわからないけど・・)、ジュンク堂をうろつく、古本屋で吟味する、遠くの図書館に行ってみる

 

こうして列挙している分には良いが、実際日曜日午後1時に起床などしたものでは気怠い陽光に完全にやられてしまい何も出来ない。ソファーにもたれて寝てしまい気づいたら午後6時半になっているのがオチだ。そもそも私の移動手段はもっぱら自転車なので疲労を必ず伴うこともネックになっている。私が本を読んでいるのは、読書の性質が自分に合っているからに過ぎないと時々思う。疲れない読書すごいありがたい、終わり