日常生活の冒険

同じ姿勢で夜となく昼となく本を読んでいると意味のない小さな虫にでもなった気分だった。朝9時まで読書したりしてた。

 

ゴーゴリ 鼻 を読む

自分にとって一大事でも周りから見たら大したことない、みたいな感じで面白い。

鼻がなくなったら騒ぐと思うが、友達とかに別になくても大丈夫だよーって言われたら困るなあ。

 

ベケット モロイ を少し読む

意味不明。出来事に迷妄が挟まりこんでそれぞれ発展していくのでそれに付き合おうと迷妄にチューニングして読もうとするのだが出来事の方も続いているらしくて謎だった。律儀に昨日挟んだ栞があるところから読みはじめるがどこから読んでもあるいは読まなくても同じ気がする。全く分からなくはあるがこうした理解の範疇を完全に超えた作品に触れているとき自分は最も遠い世界を見ているという気がしてとても嬉しくもあり、夏中よろこんで読み続けるだろうと思った。

 

大江健三郎  日常生活の冒険 を読む

斎木犀吉の最も良き理解者であったぼくもまた彼が何も成し遂げはしなかったことを最後には見出す。希望になりうる道はすべて破滅に向かっているのかもしれない。

マヤコーフスキイの詩が印象的に引用される。

" ぼくの精神には一本の白髪もないし、

年寄りくさいやさしさもない!

世界を声の力で撃ちくだき

ぼくは進む  美男子で

二十二歳。  "

すべて希望の道は破滅に通ずる、とはいえ希望の瞬間があればこそ僕はこれから先も続くヒポコンデリアの日々を生きてゆけるのだろう。全編を読んで何も達成されなかったと知った上でも夜警のあとの夜明けは変わらず希望に満ちて美しい。希望の瞬間というのはその達成の有無に関わらず本質的に良いものだったし、矛盾するようだが希望を希望たらしめているのは破滅なのではないかとすら思えてくるのだった。なんとなく好きなのは最後の方で随分弱気になってしまった斎木が、おれが自由に生きてこられたのは自分のおかげではなく別れた女たちが威厳を失う前におれの前を去ってくれたからだ、おれは他力本願だったと嘆くところ。ぼくのモデルが大江自身なので彼の作品が随所で登場する。村中の犬を殺す話なんだっけ、不意の唖だったかな違う気がするな などと思い巡らせるのが楽しかったので短編を色々と読み返してもいいかもしれない。それにしてもこの虐殺は実話なのだろうか。

ぼくが斎木犀吉にとことん惹かれた理由は冒険に連れ出してくれる可能性を彼の中に見つけたからで、それは自分にとってもよく分かった。

 

Twitterを見てると自分には頭の良さや理解力、生活、自尊心(これ以上はやめておく)などなど基本的な何もかも欠落している気がしてくる。調べものをコツコツと片付けていくなど目の前のことをやるのが解決の糸口と思われるが、課される調べものはニッチさが異常で調べ方すらよく分からない。

友達が選択肢のひとつとして医者と結婚して仕事辞めて、と言っていたけどそういうことを考えると頭が悪くなる気がした  多分本当はそんなことなくて思想の端々まで監視している神様は存在せず自分に何を許しても大丈夫だけど私はずっと何かを信仰して、意味のない虫になったりしつつ相変わらず怠惰な戒律生活を送っている 終わり